Skip to main content.

Monday, June 11, 2007

朝鮮人の話の最終話です。まとめて訳してたわけじゃないので、分量が少なくなってしまいました。しかたないので話をとった後の雑談もオマケに載せておきます。ところで皆さんは、こういう雑談ってどうしていますか?せっかくとったので捨てるのはもったいないと思うんですが、かといってどこに発表すればいいのやら。発表のあてはなくても、とりあえず文書化だけはしておいたほうがいいんでしょうかねえ。

◇◇◇ 朝鮮人の話 3回目◇◇◇

タチヤナ・ニコラエブナがいうには、戦後になって(いっしょに朝鮮に帰った人たちを)探しはじめたんだけど、どこかで殺されてしまったのか見つからなかったんだって。

タチヤナ・ニコラエブナと初めて会ったとき、タチヤナ・ニコラエブナはただ泣くばかりで、とても話ができなかった。ずうっと泣いていた。

その後いつの年だったか、朝鮮から(ティムラト村に)きた人がいた。セルゲイという名だった。わたしの従兄もセルゲイといった。母とナウヤウグトは血のつながった姉妹だから、その息子のセルゲイはわたしの従兄になる。その朝鮮から来た人の名はセルゲイ・セルゲイビチ・キムといった。丸顔で、1935年生まれ。年齢も同じだった。もしかしてと思った。長い間ずっと考えて、その人に聞いてみようかと悩んで。でも、もしかして何かよくないことが起きたらどうしようと考え直して、結局そのまま名のり出なかった。

(タチヤナ・ニコラエブナはティムラト村に住んでいるんですか?)

そう。

(帰国した朝鮮人というのは、何年くらいティムラトに住んでいたんですか?)

わからない。何年も住んでいたみたいだよ。ティムラト村じゃなくて、ティムラトの近くのトナカイ遊牧キャンプに住んでいたんだけど。

(キャンプで何をして働いていたんでしょう?)

さあ、小さかったのでよくわからない。朝鮮人が帰国したときの話は母から何度も聞いたけど、そのほかのことは知らない。そのあと何年もたって、1977年になってからタチヤナ・ニコラエブナがやってきた。アムグルヌンが招聘状を送ったから。

(ここに来た朝鮮人は何人くらいいましたか?)

すごくたくさんいたよ!ティムラトにいたのは2人だけど、ウスチ・カムチャッカとかイワシカとかオッソラにもたくさんいた。日本人も住んでいた。

(朝鮮人というのは男の人ばかり?)

男の人も女の人もいたよ。日本人もたくさんいた。日本人が作ったセメントの桟橋がいまでもあちこちに残ってるよ。ここにもあるし、チュチェウィナにもあるし。ティムラトの近くには「ヤポンスカヤ (=日本の)」という川があるよ。その近くにも桟橋がある。

(中国人もいましたか?)

いた。中国人はまだここに住んでいるよ。コリヤークと結婚したの。ガリーナ・イワノブナ・ワンデハイっているでしょう。(※1)

(ニキーフォロワさん?)

そう、ニキーフォロワ。知ってる? そう、カラガ出身の人。あの人のお父さんは中国人だった。そしてコリヤークの女と結婚したんだよ。そんな人がたくさんいた。


(※1) ワンデハイというのがおそらく中国語のフルネームだが、それをひとまとまりにしてロシア語の姓として使っていた。ガリーナ・ニキーフォロワ氏の父親のロシア語名はイワン・イワノビチ・ワンデハイであった。

(永山ゆかり)

Comments

No comments yet

Add Comment

このアイテムは閉鎖されました。このアイテムへのコメントの追加、投票はできません。

Global Navigation

AACoRE > Projects > Fieldling
ILCAA