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Tuesday, June 05, 2007

ところでマリヤ・チェチュリナさんは1年半ほど前に脳卒中で倒れたのですが、最近はかなり回復してきて今年の夏はキャンプ地で過ごすのだと知らせをうけました。外国人が入れない村に引っ越してしまったので、もう会える機会もないのかしらと悲しんでいましたが、リハビリがうまくいけば会えるかもしれません。ちゃんとリハビリを受けられているのかどうかはわかりませんが、ツンドラ育ちでもともと体は頑丈なんだからきっと回復すると信じています。

◇◇◇ 朝鮮人の話 2回目◇◇◇

ナウヤウグトたちが出発するとき、父はナウヤウグトのために大きなトナカイ橇の隊列をつくってやり、道中の食料にするためにトナカイをたくさん殺して、凍らせた肉をおみやげに持たせてやった。途中でおなかがすくといけないからね。そのころ父は裕福だったのでトナカイもたくさんいたの。母もたくさんの食料を用意してやったよ。朝鮮人たちもみんなとても裕福だった。

わたしはまだ小さかったけれど、両親といっしょにナウヤウグトを送るためにティムラトまで行った。ティムラトにはずいぶん長くいた。ナウヤウグトに出発までいてほしいと頼まれたから。でもやがて春になって、父はいった。

「もうこれ以上ここにいることはできない。春になると道が悪くなるし、娘も小さい。わたしたちは帰るよ」

いよいよ別れるときになると、みんな泣きだした。母も泣いた。いまここ(=イリプイリ)に住んでいるおばあさん、あの人がよく知っているよ。

(それは誰? - 永山)

ヤヤクだよ。このときのことを何度も話してくれたよ。あのおばあさんは自分の目で見たからね。ヤヤクもティムラトに住んでいたので、セルゲイのことはよく知っている。小さいころいっしょに遊んでもらったそうだ。(朝鮮人は)とてもいい人たちだったんだって。でも帰国することになった。朝鮮人の帰国は1937年にはじまった。

そして1974年になって、スナのいちばん上の娘のタチヤナ・ニコラエブナという人がやってきた。アムグルヌンがビザを送ってあげたらしい。タチヤナ・ニコラエブナはティムラトを出てから、朝鮮までどうやってたどり着いたかはっきりと覚えていて、そのときのことを話してくれた。

まず1937年にスクーナー船でティムラトを出てからウスチ・カムチャッカで年を越し、ペトロパウロフスクでも年を越した。それから、なんとかという島でまた年を越して、まる3年以上かけて4年目にようやく朝鮮に着いたそうだ。

朝鮮に着くと港で止められて、着ているものを全部脱がされて、なにかおかしなものを持っていないか厳しく調べられたそうだよ。海外から自分の祖国に帰ってきた朝鮮人も同じように厳しく調べられたんだって。

それからニコライの兄弟が住んでいる村に行ったんだって。そして1941年に戦争がはじまってそれっきり。その後一度も会えなかったって。

(2004年8月11日 マリヤ・チェチュリナ氏[1935生]より採録 永山ゆかり)

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